岐阜美濃地方の方言集(1998年)
先日、岐阜県山県市(旧 伊自良村)にある実家に行ってきました。色々探ると、すでに亡くなっている祖父の本棚にあった「旧制本巣中学校」の陸上部の同窓会冊子を見つけました。その巻末に「岐阜の方言集」が載っていたのでまとめておきます。
文集 鶴巣會 五十周年記念 冊子
元となった冊子は「文集 鶴巣會 五十周年記念 冊子」です。1998 年 1 月に発行されています。この「鶴巣會」というのは旧制本巣中学校(その後、岐阜県立本巣高校、2006 年からは岐阜県立岐陽高等学校と統合され本巣松陽高等学校になる)の陸上部の同窓会のようです。
冊子にあった「ご挨拶にかえて」のページの内容を書き起こしておきます。
思い起こせば終戦の翌年、私たち学生も、ようやく学業に専念し始めた頃、体育教師として颯爽と本校に、軍服・長靴姿で赴任されたのが丹羽先生でした。
ご挨拶にかえて 鶴巣会の歩み – 文集 鶴巣會 五十周年記念 冊子
先生の就任早々から、猛烈な陸上部員の獲得攻勢が始まり、当時、私は剣道部員でしたが、先生の巧みな説得力のある言葉と、何か人間的な温かみのある魅力に引かれて、ついに陸上部に転入しました。また殆どの会員も同じようでした。
私たち入部後は、毎日毎日、猛練習猛練習で、丹羽式スパルタ指導で非常に辛い体験でしたが、練習後の一時はユーモアーを交えて、「後もう一息、頭を使って努力せよ」。との励ましの言葉で、練習の辛さもつい忘れ、翌日からの練習に頑張り続けました。また先生も現役選手として活躍中であり、私たちと一緒に練習されておられました。その結果は、だんだんと自分の記録(走幅跳、棒高跳、走高跳、100m)の向上と、負けじ魂が養われてきたのだと思います。
冊子全体としては陸上部の顧問だと思われる「丹羽先生」への追悼文集としての性格が強いようです。「思い起こせば終戦の翌年」「軍服・長靴姿で赴任された」ってなかなか強烈ですねえ……。
岐阜の方言集(美濃のド言葉)
「岐阜の方言集」として表になっていたものを一覧にして載せます。副題のようについている「美濃のド言葉」はよくわかりませんが、「土着の言葉」の略とか「ド田舎」的な強調の意味かもしれません。
方言 | 標準語 |
---|---|
あんなも | あのネ… |
おまはん | あなた |
たいだい | わざわざ |
おんさい | いらっしゃい |
こっちべた | こちらの方 |
くろのほう | 隅の方 |
そうじゃなも | そうですネ |
まわしする | 支度する |
うしならかす | 無くする |
おきんさい | お止めなさい |
おくんさい | 下さい |
どんぼ | 間抜けもの |
とろくさい | 馬鹿馬鹿しい |
きっつくえらい | 大嫌い |
むかいら | 対岸 |
ひょろ長い | 弱くて細長い |
べったり | 常時 いつも |
へぇーともない | 不意に困った |
へんねしい | 羨ましい |
ひきずり | すき焼き |
ぐつぐつ | 込み合って一杯 |
ぎゃあろ | 蛙 |
えぞくらしい | わずらわしい |
つくなる | しゃがみこむ |
よこいちょる | 私に気がある |
へっつく | 結合する |
わっちんた | 私たちは |
ごめやぉーす | ご免下さい |
やっとかめ | 久しぶり |
いこまいか | 参りましょう |
あっちべた | あちらの方 |
そうきゃい | 作様ですか[1]筆者注 : 「左様ですか」の誤記と思われる |
あきゃへん | 駄目よ |
ほかる | 投げる |
おそぎゃあ | 恐ろしい |
ちやぁっと | 早く |
くいからきゃいた | 沢山食べた |
どだわけ | 馬鹿野郎 |
なまかわもん | 怠け者 |
かんこうする | 考える |
おかっつぁま | 女房 |
ひよわい | 弱々しい |
ぢょうや | 常々 いつも |
たいもない | 大変なこと |
こうばいがよい | 容量がいい |
こべこべ | 厚化粧 |
へんび | 蛇 |
どうびん貝 | 淡水の貝 |
どうづく | 殴る 叩く |
ちょうらかす | おだてる |
どえらいこっちゃ | 大変な出来事 |
おいた | 止める |
全部で 52 種類が挙げられています。正直、1990 年代から 2000 年代にかけて美濃と同じ濃尾平野の愛知県尾張地方で過ごした自分にとって馴染みがあるのは「とろくさい(馬鹿馬鹿しい)」「ひょろ長い(弱くて細長い)」「へっつく(結合する)」「ほかる(捨てる)」「どえらいこっちゃ(大変な出来事)」ぐらいで、後の言葉はほとんどわかりません。
しかしながら、美濃の山奥で育った祖父や祖母がこれらの言葉を使っていた記憶はあります。「くろのほう(隅の方)」「あきゃへん(駄目よ)」「ちやぁっと(早く)」「おかっつぁま(女房)」「どうびん貝(淡水の貝)」「おいた(止める)[2]子どもが変なことをしたときに「おいとけ(止めとけ)」みたいな感じで言われたりした記憶。」などの表現は使っていたような気がします。
祖父の寄稿内容
文集ということで、何人かの方々が寄稿されています。他の方の文章はさておき、私の祖父の文章をせっかくなので残しておこうと思います。
丹羽先生を偲んで
村橋 定光(23年卒)
(中距離走者)先般、中日紙[3]祖父による註: H8.7.7 | 中日新聞の記事を日付と思われる。上で岐阜陸上競技協会創立五〇周年を記念する式典が盛大に催され、関係者が相集い輝かしい五〇年の歴史が振り返られた由を知りこんなとき、若し丹羽先生がご存命ならば、さぞや誇らしげに話題の中心となり、楽しい一時を過ごされたことと思いを馳せたのである。
過ぎし古を顧みれば、先生に接することになったのは、昭和二十一年四月に体育の教師として赴任されて来られてからである。その当時の印象は、非常に上背のあるスマートな、短距離走に強い青年教師という程度であった。よもや、この教師が将来全国高校陸上競技大会で、優勝者を十六人も育てる類い希な指導者になるなどとは、夢にも考えられなかったのである。
この旅、鶴巣会が五〇会を数えようとしているのにあたり、記念誌を発行しようとの提案があったが、わたしが陸上部に所属したのは一年あまりで、翌年のシーズンには体調を崩して部活動には全く参加できなく、僅かな期間であったので多くを語れないが、先生を偲んで二、三の思い出を断片的に書いて見たいと思う。
第一話
勝利至上主義
部活としては"勝利に徹する体力の向上と精神力の養成にあり"を信条として、身をもって実現された人である。
当時はいわゆる、戦後における運動部の黎明期で、施設なし、設備なし、用具なしの時代であり、部活動といえば、ただひたすらに走るのみであった。この頃陸上部の指導は高橋三三先生で、この方は部活動の目的を"人間形成"に求めておられたように記憶している。この先生がその頃、昭和21年4月より陸上競技を専門とする素晴らしい教師が来られるので、しっかりと指導を受けるようにと、少なからず洗脳されていたのである。
このような経緯を経て、同年4月に待ち焦がれていた丹羽先生が赴任をしてこられ、数日後グランドで身近に℃、そのスマートな勝利市場主義実現のため、過酷な練習メニューが示され、『練習に泣いて試合に笑え』と、自然のうちにそのベルトコンベアーに乗せられ、連日鍛えられたのである。
即ち、当時グランドで走るのは当然であるが、雨天ともなれば木造校舎の廊下伝いに、全力疾走を強いられ頑張ったのであるが、その騒音などにより一部の教師からひんしゅくをかったものである。
また、昭和21年に金華山[4]筆者註: 岐阜市内にある山。頂上には岐阜城がある。一周駅伝が開催されたときのことであるが、、開催日は間近に迫ったころ、たまたま雨天の日があって、今日は休みかな? とかすかな期待を持ったのであるが、豈はからんや、陸上競技は晴雨不論だとの一声で、雨中における記録会となったのである。当時の中学生には、とても考えられない練習メニューであった。後日になって、当駅伝はたまたま開催日が雨となりいろいろと悩まされたが、幸いにも優勝して、先生を始め関係者一同大いに意気軒高したのであるが、先生は、"どうだテイコー(定光[5]筆者註: 祖父の名前は「さだみつ」と読む。)雨の日の記録会が無駄ではなかったことが判っただろう!"と強調されたのである。
また、その当時、中学クラスでは合宿練習などは、全く認識されていないころであったが、夏季休暇を利用して合宿練習を実施し、競技力の向上はもとより、人間形成のうえでも強く薫陶をうけたのである。
さらに、競技技術習得向上をめざして、二ランクも三ランクも上の大学生や社会人との合同練習を実施して、その成果を挙げたことは、当時を思えば、先生のユニークな練習メニューの一例である。第二話
生徒の心をたくみにリードする人間教育
陸上競技に勝つための信条として、生徒の心を掴んだ人間教育に専念された。そのため常に、生徒と共にグランドに立ち、一緒に練習に励み、たえず生徒の話題の中に入り、生活面の面倒をよくみられた。
今でこそ語れるが、具体例を挙げれば"タバコがほしいななー"とつぶやけば、機をみてグランドであっても落として行ったり、G子(女学生)に悩めば人生相談もやり、生徒は先生の一言一句に陶酔し、それが競技の集中力となり成果をあげたのである。しかし反面、生活指導にたいする学校方針との違和感に疑念を抱いたのである。第三話
食材持ちよりによる昼食会
当時は、戦後の混乱期で一般的には衣食住に満たされない時代であったが、ある日先生の提案で、先生との交友関係にある人たちと一緒に昼食会を持ちたいので、「米を持って来いよ」と誘われて、特定の部員と共に、いそいそと運んだものである。昼食会は、楽しくなごやかに進められたが、話題は陸協の運営や他人の噂話などが中心で、我々には全くかかわりのない話題であった。
このようなことが二~三回行われたが、何か不自然さを感じ、いつともなく、この誘いから遠ざかったのである。
全部で 1, 2, 3 話と分かれているのですが、明らかに 1 話以外は内容量が薄い気がします。(途中で飽きたのかもしれません。)
他のページ
ほとんどのページは各々の寄稿文だったのですが、それ以外のページも一部載せておきます。
このほかには会員の住所と電話番号入りの名簿ページなどがあったりしました。まだ個人情報保護などがほとんど気にされていなかった 90 年代の冊子らしく感じます。
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